平安神宮で『薪能(たきぎのう)』を観てきました。西日がまぶしい夕方から、あたりが真っ暗になる夜にかけて、屋外に設えた舞台で演じられる能や狂言です。夜の帳が下りると同時にかがり火が灯され、炎に照らされた演者の舞は夢の中の出来事のようでした。これが「幽玄」か……!
1950年に始まった京都薪能は、今年で第71回目。京都の初夏の風物詩として定着していますが、新型コロナ対策のため2020~2021年は開催できず、3年ぶりの開催となりました。
私が能を鑑賞したのは人生で2回目。前回は東京・銀座で行われた観世清和さんとコシノジュンコさんのコラボイベントでした。演目は『紅葉狩 鬼揃』です。
能や狂言を観たことがない初心者だと、「楽しめるかわからないのに、お金を支払ってチケットを買うのが怖い」と思いません? 私も初心者ですけど、私なりには楽しかったですよ。京都薪能のレポートがてら、初心者は楽しめる方法を考えていきます。
能と狂言……初心者でも楽しめる?
演目が始まる前に予習しよう
まず、予習しなければストーリーは理解できないと思う。少しの時間、公演の30分前でも良いので、ストーリーを予習するのがおすすめです。
なぜ予習が必要なのかというと、初心者がいきなり演目を観てもストーリーを理解できないからです。能の言葉は現代語ではありません。同じ日本語ではなく、外国語だと思ってください。
「そんなの大げさだよ、観れば分かるように演じてくれるんでしょ?」と思わないこと。能は古典です。現代の鑑賞者に最適化されてはいません。それが能の奥深さであり魅力だと思いますが、現代の初心者が思考停止状態で楽しめるほど平易な芸能ではないのです。
演目の予習には、銕仙会のウェブサイトがおすすめ。各演目の「概要」だけ読めば、あらすじは把握できます。概要の下に詳しいストーリーが書いてありますが、そちらは読んでも読まなくても良いかと。馴染みない固有名詞がたくさん出てきて読みにくい演目もありますし。とにかく「概要」を読むだけでOKです。
狂言はセリフ回しが分かりやすく、現代人も共感できる笑える話が多いので、予習しなくても大丈夫かも。ですが、能の予習ついでに狂言もサクッとググっておくと安心です。
ぼんやり鑑賞するのがおすすめ
付け焼刃で良いのでストーリーを押さえて能に挑むわけですが、それで充実した鑑賞体験になるかどうかは別。これも能の面白いところだと思います。普通、ストーリーが分かれば満足できると思うじゃないですか。どうやら能は、そういうエンターテインメントとは違うようです。
能が始まったら、話について行こうと思わないほうが良い。笛や小鼓の妖艶な音楽に身を任せ、人間とは思えない動きで舞う演者を目で追い、ユニークな表情の面を眺める。話を理解しようと前のめりで鑑賞するより、舞台全体を見渡す気持ちでぼんやり鑑賞するのが良いと思います。全体を広く見て、舞台から発せられる神聖な空気に身をゆだねるのです。考えるな、感じろ。燃えよドラゴンメソッドです。
細部しか見ていないと、どこかで置き去りにされてしまいます。例えば面をつけている人が2人以上いると、誰が喋ってるのか分からなくなる。口の動きが見えないから。「えっ、今誰が喋ってる?」とあたふたしているうちに、次のシーンに移ってしまうのです。
全体を広く見るのが難しい場合は、演者の舞に注目すれば面白いと思います。鬼や猛獣を演じる人は、足で舞台を踏み鳴らしながら大きく激しく舞いますし、気品のある女性を演じる人は身体を小さくして優雅に舞います。すり足で歩き、ベルトコンベアで運ばれているかのような滑らかな移動も面白いです。
舞にはキャラクターの個性が表れます。いくつかの演目を連続して観ると、キャラごとの舞の違いが感じられて面白いですよ。
ストーリーを追いかける以外の楽しみ方をするためにも、あらすじ予習の段階でストーリーの把握を済ませておきたいのです。
2022年の京都薪能1日目、演目の感想
6月1日(水)
- 金剛流能 「淡路」(シテ)金剛龍謹
- 観世流能 「花筐」(シテ)浦田保親
- 大蔵流狂言「首引」(シテ)茂山逸平
- 観世流能 「龍虎」(シテ)大江信行
6月2日(木)
- 観世流能 「養老」 (シテ)吉浪壽晃
- 金剛流能 「龍田」 (シテ)金剛永謹
- 大蔵流狂言「福の神」(シテ)茂山忠三郎
- 観世流能 「小鍛冶」(前シテ)大江泰正 (後シテ)橋本光史
能の演目が始まる前には、狂言師と思われる2名の方が、狂言風にあらすじを紹介してくださいました。すゑひろがりずの漫才のようでしたね。
私が鑑賞したのは1日のほう。各演目の簡単なあらすじと、初心者のひとりとしての感想を書いていきます。
淡路
【あらすじ】
帝の臣下が淡路島を訪れると、ある老人夫婦に出会う。国生み伝説を語ったあと、老人夫婦は自分たちがイザナギ、イザナミであると明かし、再来を約束して姿を消す。夜になってイザナギが現れて神舞を舞い、国土の安泰を祝う。
3年ぶりの京都薪能を祝い、コロナ終息への祈りが込められた演目ですね。今回は短縮バージョンのため、老人夫婦が登場するくだりは省略されました。
見どころは終盤のイザナギの舞です。今回は、通常でも速い神舞を「急」よりも速い「急々」の位で演奏したとのこと。笛や小鼓、大鼓、太鼓の演奏がどんどん速く激しくなっていき、演者の動きが速くキレも良くなる様が見事でした。どこまで速く激しくなるのかハラハラしながら観ており、最後の足踏みが決まった瞬間はスカッと気持ちよかったです。
花筐(はながたみ)
【あらすじ】
突然の即位で愛する女性(照日前)に別れを告げられなかった皇子は、和歌を添えた文と花筐(花かご)を使者に託し、都へ。照日前は恋しさのあまり心を乱し、放浪の旅に出る。即位した継体天皇が紅葉狩に赴くと、狂女と侍女に遭遇。官人は女たちを追い払おうとして、侍女が持つ花筐を打ち落とす。「君」の花筐を打ち落とすとは忌々しい、と官人を責める狂女。帝は自分が贈った花筐だと気づき、狂女が照日前であることがわかる。彼女の想いの深さを知った帝は、照日前を連れて都へ帰る。
この演目がクライマックスを迎えたのは、空の半分が橙色、もう半分が水色という時間帯でした。面をかけて生身の顔を隠した狂女と侍女が舞えば、現実らしさはどこかへ消え、人間がいてはいけない世界が立ち現れたように思えました。
その中で唯一、人間臭さを感じたのが花筐です。花がいっぱい入った花筐が、小道具として登場します。男から女への贈り物が花筐で、女は花筐を大事にしているなんて綺麗すぎて引きませんか。離れても冷めない愛と花筐だなんてロマンティック詰め込みすぎだし、コテコテのトレンディドラマですよ。
奈良時代より遙か昔の話らしいし、能は人工的で良いのかもしれないけれど、綺麗すぎて蕁麻疹出るかと思いました。綺麗すぎる川に魚は住めないのです。
狂言・首引(くびびき)
【あらすじ】
武士の男が播磨の国、印南野を通りかかると、鬼に襲われて捕らわれてしまう。鬼は自分の娘(姫鬼)に人間の食い初めをさせようとする。男は姫鬼と勝負をし、姫鬼が勝ったら自分の身を捧げると言う。小さな姫鬼に対して武士の男は力が強く、腕押し、脛押しの勝負で圧勝。次は首引だが、姫を勝たせたい親鬼は眷族鬼たちを呼び出して加勢させる。
舞と謡で話が進む能に対し、狂言はセリフで話が進む喜劇なので、ストーリーを追いやすいです。演者の動きやセリフの言い方が明らかに滑稽で、笑わせるツボを押さえているので、観客は気楽に楽しめます。
特に笑えるのが鬼。鬼は恐ろしい生き物ですが、狂言では恐ろしさを逆手に取り、滑稽に描かれます。「首引」の鬼は、武士に対しては横柄な態度で乱暴な言葉を使うのですが、姫鬼に対しては猫なで声。
会社ではパワハラ上等で偉ぶっているのに、娘の前では親バカ甚だしい人っていますよね。「パパでちゅよ~」とか言っちゃって。家族にだけ見せる顔を知ってしまうと、会社でどんなに横暴な態度を取られても怖くないじゃないですか。あれと同じですね。鬼がまったく怖くなく、滑稽で楽しい喜劇でした。
龍虎(りょうこ)
【あらすじ】
黒雲とともに現れた龍と、竹林から現れた虎が戦う。
非常にシンプルなお話です。龍と虎は屏風など日本の絵画によくセットで登場するモチーフ。龍はもちろん、江戸時代以前の日本人にとっては虎も幻の生き物でした。日本に生息していない虎を、見世物などで一般人が見られるようになったのは、明治以降です。
絵画ではよく見るものの、龍と虎が動いて戦う様子を見たことがある人はおりません。この2匹の動きを舞台で演じたら面白いんじゃないか、どんな風に戦うんだろう、という空想から生まれた演目ではないかと思います。
龍と虎の激しい戦いが見どころの演目ですが、能の中では、という意味ですからね。「激しい戦い」「大きなアクション」「一大スペクタクル」といった煽りを文字どおりに受け取って鑑賞すると、期待外れに終わりますからね。
「激しい戦い」と言われたら、現代人はハリウッド映画並みの激しさだと思います。ですが火薬もワイヤーもCGも使えない能でハリウッド映画級は無理です。しかも能の美意識は幽玄。殴る蹴るの取っ組み合いもできないのだと思います。
演目の終了後、客席から出口に移動するまでに、「想像より盛り上がらなかった」「もう少し何かあるかなと思ったところで終わった」という声がたくさん聞こえてきたんです。ハリウッド映画とまではいかなくとも、遊園地のヒーローショーくらいのアクションを想像し、期待が外れてしまったのでしょうね。気持ちはとてもよく分かる。
「激しい戦い」と言われたら、頭の中で「能の中では」を補わなければなりません。他の言葉も全部そうです。「初心者にも分かりやすい」は「能の中では初心者にも分かりやすい」だし、「衣装が派手で豪華」は「能の中では衣装が派手で豪華」という意味です。絶対評価ではなく相対評価です。
変に期待をかけなければ、龍虎は迫力があって楽しめる演目でした。大柄な男性2人が演じていたらしく、龍も虎も他の演目のキャラクターより一回り大きく、舞台が小さく見えるほどでした。しかも、大きな龍と虎が舞台上を滑るように素早く動いて戦うのです。すり足なので上半身が動かず、見えない糸に引かれてスーッと移動しているようでした。
重たい衣装を身に着け、上半身を前傾させ、すり足で走っているのです。見た目には涼やかですが、ぶっ倒れるくらいの重労働のはず。軽装備でバック転もできるヒーローショーとは違うのです。
能と狂言を予習したい!薪能の前に公開講座へ
公開講座では、知っていると鑑賞がより楽しくなる能と狂言の基礎知識と、ダイジェスト版の能が上演されました。要約すると以下のような内容でした。
- 謡のイントネーション
- 演者の体勢やすり足、泣くときの仕草、足拍子
- 囃子に使う楽器(能管(笛)、小鼓、大鼓、太鼓)の特徴
- 能と狂言の違い
- ダイジェスト版の「嵐山」
特に興味をそそられたのが、小鼓の演奏と管理方法です。小鼓は紐を緩く縛っておき、演奏中に左手で紐を強く握ったり弱めたりすることで、音の高さが変えられるのです。音の高低を変えられる打楽器があるなんて初めて知りました。
小鼓の皮は乾燥に弱いので、本番中にも息を吐きかけて湿度を保たなければならないそうです。ときにはベロリと舐めて唾液で湿らせることもあるらしい。実際、薪能の最中も、小鼓の演奏者が皮に何度も息を吐きかけていました。
潔癖な私には絶対に演奏できない楽器だし、もし万が一、他人の小鼓を見ても絶対に触らないようにします。人生は100年もありますからね、いつ他人の小鼓に遭遇するか分かりません。遭遇する前に知ることができて良かったです。
一方の大鼓は紐を硬く縛って固定するので、演奏中に音の高低を変えることはないそうです。小鼓とは違って皮を乾燥させる必要があるので、楽屋では火鉢で焙じるらしい。音は小鼓より高い。面白いですよね、小鼓と大鼓は同じような楽器に見えるけど、正反対の特徴があって、大きい楽器のほうが高い音が出るなんて。西洋の楽器だと、大きくなるほど音が低くなりますから。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの順に大きく低くなるでしょう。
こんなふうに、公開講座では能や狂言を演じる人ならではの知識を教えてもらうことができました。ネットや本だけでは知りえないことを学べて勉強になったし、能や狂言を観るのが楽しみになりますね。
2022年は、薪能が18時から、公開講座が14時からでした。6月1日と2日の両日とも開催されました。
【まとめ】初心者は予習とぼんやり鑑賞で
夕方から夜にかけて、暗くなっていく時間帯の公演だったからか、観客席には寝ている方がちらほらいました。寝ること自体は悪くないと思います。能や狂言がつまらなかったのでもありません。疲れているときは仕方ないです。能の謡や囃子はどうも眠気を誘いますし。
でも眠ってしまう一番の原因は、ストーリーを追えなくなり、舞台上の出来事が自分とは無関係になって興味を持てなくなることだと思います。最後まで興味を持っていられるよう、簡単にでも予習しておくと良いです。
ストーリーを結末まで予習しておけば、話の途中で迷子になることはありません。全体を広く見るぼんやり鑑賞で、自分にとっての能の面白さを見つけていけば良いのです。